情報というのは、ある種の生命現象と似たものではないかというイメージがあります(俺の中で)。いや、正確に言うと、ウイルスのように生物を宿主(環境)として増殖するものと同列のものとして考えると、しっくりくるところがあります。
具体的には、例えばE=mc2という情報。アインシュタインが発表して、伝えられて、広がって、やがてソレを知る者が多数を占めるようになっていく。増えてますね。つまり、情報はヒト(知性)を宿主(環境)として、伝達されることによって増えるという側面を持っているわけで、これはまさにウイルスと一緒じゃあないかということです。コンピュータウイルスなんか、まさに名前からしてそのまんまですね。違う点は、ヒトというのは情報を勝手に覚えてしまうので、別にコンピュータウイルスのように積極的に増えるように仕込んでやる必要も無く、そういう側面を最初から持っているわけです。(究極的には、知性すら必要としない)
もちろん、厳密には「生命」じゃないですよ。ウイルスも「宿主」が無くては増えられないという点から、生命の定義からは外れるとされています。しかし、上にチラッと書きましたが、「宿主」というのはウイルス側からすれば「環境」に他ならないわけで、それに適応する限りにおいては、自発的に増殖する生命体になる必要性も方向性も極めて希薄なのです。もしウイルスが「これじゃあダメだ」と思ったりしたら、そこから脱却するべく努力したりするのかもしれません。
で、少し脱線しましたが、「意思」とか「個人」とかいうのも、極論的には情報なのです。偶然によって培われた経験と記憶こそが、個人を構築するのであって、わかりやすいところで言うと自分の体細胞からクローンが作られても、生物学的には自分と同一ですが、それはもう個人であるところの自分じゃない。最近、死体マウスからクローンが構築できた、iPSテラスゴスという論文がありましたが、こうなってくると、そうやって生まれた生命は例え細胞は一緒だとしても、もう明らかに自分じゃねえなということが直感的に理解しやすいかと思います。
つまり、何が言いたいかというと、感情・知性を持ちえた生物というのは、生物としての存在とはもう一つ別に、生命現象を高次的に多重性を持って内在しているということです。で、ヒトというのは一応地球では最初の知的生物ということになっています。知的生物は、普通の生物として遺伝子を次世代に伝達するということだけではなく、高次に生じた生命たりうるモノ、すなわち情報を確実に次の「環境」に伝達することでこそ、やっとその存在意義が生まれると思います、はい。
そんなわけで、「伝えなきゃ意味が無い」という感覚は、自分の中でここ数年になって急激に強くなってきたものです。何でもいい、それこそ死に物狂いで伝えなきゃいけない、という感覚があります。何に伝えるか? 宇宙の向こうか、百万年先に地球にいるかもしれない、次の知的生命体か、まあそんなところかなというイメージです。どうでもいいですが、新しくつけたウチのblogタイトルと関連させています。
パイオニア号や
ボイジャー計画はまさに神がかり的な、ヒトの出現した意義を見事に体現した、極めて高レベルな、すばらしい研究プロジェクトだと思います。
(余談)
なぜ急にこういう話を書いたのかと言いますと、そういうことを常日頃考えているからというのもありますが、たまたまテレビを眺めていて
こういう番組を見たからでした。太田光はあんまり(というか全くもって)好きではないのですがネ。三浦教授の「意思は(今のところ)人間には作れない」は深いコメントでありました。上に書いたように、生命現象として多重構造になっているからじゃないのかしら? と漠然と感じています。
(余談2)
愛してやまない漫画の一つ「蟲師」。中でも5巻の「沖つ宮」がその最高傑作だと勝手に思っているのは、こういうことばっかり考えているからでありましょうな。